2010年12月21日火曜日

タンザニアからの花花通信

Hamjambo?

みなさま、ご無沙汰しております。

日本での生活もこれで約9ヶ月。日本にいると時間の進み方がとても早く感じられます。すっかり日本での生活に馴染んでしまいました。

さて、この9ヶ月の間に、これまでブログで書き溜めてきた日記を元に『花花通信』を一冊の本にまとめ、この度出版の運びとなりました。日記とともに、タンザニアの紹介や特にお世話になった友達のことを書いた部分が加わっています。

表紙はそこそこ素敵な仕上がりになっていて、自分も気に入っています。よろしければ、1冊にまとまった『花花通信』をまた読んでみてください。

ということで、書籍版『タンザニアからの花花通信』もどうぞよろしくお願い致します。

また、協力隊参加から本の出版という道のりの間ずっと応援してくださった皆様方、本当にありがとうございました。

http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1103004276/subno/1

http://books.livedoor.com/item/4093744

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E8%8A%B1%E8%8A%B1%E9%80%9A%E4%BF%A1-%E8%8A%B1%E6%88%BF-%E7%AF%84%E5%AD%90/dp/4434152785

2010年3月24日水曜日

三重県に無事到着

Hamjambo?


今日、研修が終わって実家のある四日市に戻ってきました。


新幹線って速いですねぇ。7時半ごろには家に到着しました。


家に戻ると、私がタンザニアから送ったティンガ・ティンガの表札が迎えてくれました。


このブログ、これで本当に終了しようと思います。


日本から応援してくださった皆様、お世話になったタンザニア在住の皆様、本当にありがとうございました。


筆不精で日記などはこれまで全く長続きしたことのない自分ですが、特に日本の人達にタンザニアのことを少しでも伝えようという思いと、家族に無事を伝えたいという思いでなんとか続けることができました。


コメントはなくても「花花通信、ちょくちょく見てるよ~。」ってメールもらったり、タンザニア在住の日本人の人にも声を掛けてもらったり、とても嬉しかったし、続ける活力となりました。


私が派遣されていた期間にこの「花花通信」を読んで、少しでもタンザニア、しかもダルエス市、テメケ区のディープな部分を感じていただけたのでしたら幸いです。


これからは日本を舞台に頑張っていきたいと思います。


また会う日まで。


Tutaonana 

2010年3月23日火曜日

協力隊活動終了

Hamjambo?


3月22日の夜に羽田に無事到着しました。


途中、トランジットでドバイに立ち寄り、夜中にもかかわらず光り輝いている空港の建物に驚き、店の中の品物の多さや人の多さに圧倒され、日本へのリハビリを経て日本にたどり着きました。


ドバイからの飛行機では久しぶりに日本人ばかりが周囲にいる環境に緊張しながら過ごしました。


大阪に到着直前、飛行機から見た大阪の町は家が密集し、大都会と思っていたダルエスサラームをはるかに凌ぐ建物の多さになんとなく自分の心拍数が上がるような緊張感を覚えました。

羽田に到着し、日本はとっても寒くて、汗が止まらなかったタンザニアの暑さがなんだか信じられません。汗が全くでない。。。


東京では街を歩くと店のショーウィンドーがピカピカで、元々田舎者なのにキョロキョロせずに居られません。まだまだ今のところは何を見ても感動と驚きと新鮮さで一杯です。


店員さんの愛想のよさや対応の早さにもいちいち感動です。一日目の夜は居酒屋さんで最初に食べたのはめかぶ豆腐。。。タンザニアでもご飯はおいしく頂いてきましたが、やっぱり日本食、何を食べてもおいしいですね。


そんなこんなで、今日は東京で研修があり、外務大臣はいらっしゃいませんでしたが、感謝状を頂きました。本当にこれで隊員活動が終了です。

(感謝状を20年度の現職参加教員が受け取りました。)


(頂いた感謝状。岡田さんが外務大臣ってあまりわかってませんでした。)


自分の国に対して新鮮な気持ちで向き合える今の自分を忘れないように、これからは日本を舞台にまた一から出直して頑張らないとだめですね。



もうちょっとで三重県に帰ります。



Tutaonana

2010年3月21日日曜日

帰国します!!

Hamjambo?
いよいよ帰国します。今は日付も変わって3月21日の午前0時30分。ということで、今日のお昼の便で出発します。
たくさんの経験と思い出が出来た1年と9ヶ月。タンザニア人、タンザニアにいる日本人の方々はもとより、日本で応援してくださった皆さんのおかげで無事に過ごすことができました。本当にありがとうございました。
もう少しで日本です。日本に帰ってきたらまた今まで通りお付き合いくださいね。
家に着くまでが遠足なので、最後まで気をぬかないで無事帰りつきたいと思います。
東京で研修があるけど、皆さん、待っててくださいね!
Tutaonana!

昨日は、恒例のクワヘリパーティがありました。任期中の活動をまとめたムーヴィーが披露されました。

2010年3月15日月曜日

Kinyagoの初舞台とお別れ会

Hamjambo?

 帰国まであと1週間ほどに迫ってきました。先週の金曜日は区役所の仕事納めとなりました。あとは部屋の片付けと各方面へのお別れの挨拶、JICAでの報告、首相府での報告や大使館への表敬が残っています。先週からすでに各方面にお別れの挨拶に行く機会も何度がありました。挨拶を大事にするタンザニアですから、何も言わずに去ったりすれば大変です。校長会でお別れの挨拶をし、「ちゃんがもと」で机を送ったBuza小学校の先生方にお別れ会を開いて頂いたり、区役所の区長さんにも挨拶に行きました。

 昨日の土曜日の夜は、これまで一緒に特別支援校で協力してきたダルエスサラーム在住の日本人の方がお別れ会を開いてくださいました。3月はお別れの季節ということで、他にもタンザニアを去る方々まとめてのお別れ会でした。特別支援校での音楽の授業はKinyago Theater Groupのリーダーも一緒に協力して続けてきたので、このお別れ会に彼らが太鼓の演奏と歌や踊りのパフフォーマンスをしてくれました。
 Kinyago Theater Groupだけの初のオンステージ。歌や踊りはもちろん、火を使ったパフォーマンスまで見せてくれ、タンザニアを去る人たちのために、お別れの歌も新しく作ってくれていました。

(火を使ったパフォーマンス。体に直接火の点いた棒をつけたり、口の中に火の点いた綿の塊などを口にいれたり、こんなのも出来るなんて実は知らなくてびっくりしました。)
(女性のダンサーもこの日は助っ人で参加してくれてさらにパワーアップ)
Kila chenye mwanza, akitakosa mwisho
Tunasema kwa herini,
Tutaonana tena
Mungu akipende tutaonana tena...

始まりがあるものはすべて終わりがある。
僕たちは言う。さようなら
また遭いましょう。
神さまがお望みになれば、またお互い会うことでしょう。


 私がタンザニアに来ない限り、彼らと二度と会うことはないかもしれません。日本に行ってみたい、日本へ行きたいという彼らには、「日本までの往復チケットさえ買えば、あとは私があなたたちをもてなすわよ」と言い続けてきました。日々の生活にも苦労している彼らにとって、それがほとんど不可能なことはわかっているけれど、そういい続けてきました。
「そんなの無理さ。」と言った時も、「大会で優勝して大金をもらうかもしれないわよ。」なんて言い続けてきました。「そうだね。あきらめないさ。」と答えてくれたリーダー。最近の彼の口癖は「僕はタンザニア人ボランティアです。」という自己紹介。子どもたちや近所の若者に太鼓やお芝居の指導をボランティアで続けてきてくれました。これまで何人かの日本人ボランティアにも出会ってきた彼は、日本人ボランティアが2年ごとに必ず帰国することを理解しています。そして彼らにもう一度会うことがとても難しいこともわかっています。新しく今回作ってくれたお別れの曲はとても明るいメロディーだし、みんな楽しそうに踊っていたりしたけれど、リハーサルの時に歌詞を聴いて泣きそうになりました。

 でも当日のKinyago Theater Groupのパフォーマンスはみんなで踊りを踊ったり、お別れのことさえ忘れてしまうようなとても楽しい時間を過ごしました。そして最後に一人の方がこのお別れの曲をアンコールしました。もう一度、Kinyago Theater Groupがこの明るく元気なお別れの曲を演奏したのですが、演奏し終わった途端にリーダーが感極まって泣き出してしまいました。自分もなんとか泣かずに我慢してきたのに、恥ずかしながらもらい泣きしてしまいました。日本での友人とのお別れと違って、「一体いつまた会えるのだろう。」という思いが頭を巡ります。
(日本人もみんなで一緒にステップを覚えて、ンゴマにあわせてダンスをしました)

 出来たばかりの新しいグループの応援をしてきたわけですが、これからは彼ら自身が自立していくしかありません。昨日がグループとしての初仕事だった彼らは、まだグループとして仕事らしい仕事はもらっていません。ここからが始まりなので、いつかタンザニアに私が戻って来た時、今よりも一回りも二周りも大きく成長していて欲しいと願うばかりです。
Tutaonana



(最後に皆で一緒に写真を撮りました。)

2010年3月7日日曜日

Fatakiのはなし

Hamjambo?
 先週は色々な学校や校長会などでお別れの挨拶をしてきました。おおよそ1年間通った特別支援小学校でもみんなとお別れをしてきました。昨日は「特別な支援の必要な子どもたちのための文化祭」というような催しがVillage Museumで開かれ、私が教えていた学校の子どもたちも参加したのでそれを見に行ってきました。
(Salvation Army特別支援小学校の子どもたちも元気に踊りと太鼓を披露しました。)

 
 この催しはVillage Museumというタンザニア各地の部族の文化を紹介する国立博物館で行われました。参加した子どもたちの多くは、肢体不自由、視覚や聴覚不自由の子どもたちや孤児などで、いずれもダルエスサラーム市内の学校や施設で学んだり生活しています。
この催しは子どもたちへの特別支援の意味もありますが、ダルエスサラームという都会育ちの子どもたちがタンザニアの伝統文化について学習する場でもあり、昔ながらのお茶を作って飲んだり、博物館所属のンゴマのグループによる太鼓やダンスの披露、タンザニアの東海岸沿いの人たちの衣装のファッションショーなどのプログラムもありました。それと同時に、参加した学校の子どもたちに活躍の場を与えるという意味もあり、子ども達もンゴマ(太鼓と踊り)、啓発劇、歌や詩の朗読を披露したり、手芸品や美術作品の展示などもあり、とても有意義な会でした。
(博物館所属の女性だけによる太鼓と踊りのチーム。平均年齢も高そうで、おばあちゃんも太鼓を叩いていました。とっても元気で、南部の踊りを披露しました。)

 
 さて、私が通っていた学校の子どもたちも含め、この文化祭で数校が啓発劇を披露しました。この啓発劇、特に内容について打ち合わせをしたわけでもなかったのに、すべての学校が「Fataki」という同じテーマでお芝居を作ってきました。「Fataki」は「花火」という意味もあるのですが、最近よく聞かれる言葉で、しいて言えば「お金を持っているロリコンおじさん」みたいな人のこと指すのに使われるようになってきました。元々は「ロリコンおじさん」と小学生の女の子を題材にした啓発コミックで、その「ロリコンおじさん」の名前がFataki氏だったことによると聞いています。
(Fatakiはこんな人!?)

 小学生の妊娠問題がまだまだ無くならないタンザニアでは、「Fatakiにだまされないようにしましょう」的なキャンペーンが展開されたこともあり、今回このテーマを選んだ学校が多くなったようです。各学校とも同じ「Fataki」がテーマでも少しずつ内容が違い、色々なタイプのFatakiが居ることが分かります。私の通っていた学校の子どもたちが披露したFatakiは、小学生の子どもを持つ父親が自分の子どもの友達に手を出して妊娠させるタイプでした。別の学校は、通学途中で出会ったお兄さんぐらいのFatakiのことを取り上げました。このFatakiは通学途中に毎日車に乗せてくれたり、ご飯をご馳走してくれたりし、最後に子どもは妊娠してしまうという話でした。

 
タンザニアではレイプの刑は禁錮30年、18歳以下の子どもに結婚を強要した親なども刑罰の対象になると聞いています。未成年の子どもを妊娠させた場合もなんらかの刑があると思います。啓発劇の中でもこのFatakiたちは警察に捕まるという結末でした。以前にも書いたかもしれませんが、小学校や中学校の男性教員が生徒を妊娠させるという話もちょくちょく聞きます。そういう場合も子どもの教育の機会を奪ったということで刑罰の対象になるはずなのですが、「結婚する」という形でそれを逃れている場合が多いと聞いています。
      (Fataki追放キャンペーンのポスター。アメリカの支援とタンザニアのエイズコントロール局も協力しています。)

 どうしてこんなにFatakiがはびこるのか。「Fatakiの言うことを聞いたり、ついて行ってはダメよ。」というのは、日本で小さい子どもによく言う、「知らない人について行っちゃダメよ。」というのともちょっと違うような気もします。Fatakiは大体にしてお金を持っていて、「車に乗せて家まで送ってあげよう。」とか「チプシ(フライドポテト)をご馳走してあげよう。」「ソーダをご馳走してあげよう。」と言ったり、課外授業の授業料や交通費などのお金を出すとか、携帯電話や洋服など様々なものを買ってあげるとか言うイメージです。一方で、劇の中でも、貧しくて食べていけないという状況の子どもが描かれているわけではなく、「物が欲しい」という欲望に負けてしまったりする様子がよく描かれています。田舎の状況はまた違うのかもしれませんが、ダルエスサラームだと、日本で言う「援助交際」的な感じにちょっと近いかもしれません。

 急に便利なものが生活の中に入ってきたタンザニア。特にダルエスサラームでは人々の「物欲」が高まっているようにも思います。最近の女子大生は3人の彼氏がいるという話もどこかの新聞の記事で読みました。一人は「ATM」でお金を持っている学校の外にいる年上の彼氏。もう一人は「Voda fasta」(ある携帯電話会社のサービスの良さを売りにするキャッチフレーズ)と言って、彼もなんでも言うことを聞いてくれるタイプのようです。もう一人は「Bajaji」(町を走るバイクタクシーの呼び名)と言われる同じ大学内の学生で、お金はないけど、テスト前にノートをコピーしてくれたりなんでも言うことを聞いてくれる言わば「パシリ」の彼氏だそう。。。これがすべて本当とは思いませんが、多少はこういう人たちがいるのでしょうね。

 さて、今回の文化祭で啓発劇を演じた子どもたちやそれを見た子どもたちはFatakiの被害に遭わないことを願いたいと思います。それとともに、男の子はFatakiに将来ならないで欲しいものです。タンザニアも子どもを育てるのにこれまでとは違った意味で大変な時代になってきたように思います。
Tutaonana

2010年3月1日月曜日

タンザニアに骨を埋める覚悟

Hamjambo?

 活動期間が残り少なくなってはいますが、今だにしつこく週末もユースグループを訪ねたりして過ごしています。昨日はみんながよくやっているボードゲーム(ドラフトと言うそうです。)を教えてもらいました。自分は良く知らないけど、西洋碁?のことなのかな。結構頭を使うゲームです。やっているのはほとんど男性ですが、子どもから大人まで街角で真剣勝負している姿をよく見かけます。私も昨日は初挑戦。みんなに助けられながら何人かと対戦しました。


(ボードは立派なつくりですが、駒はペットボトルの色違いの蓋を再利用。こんな風景にどこでもお目にかかります。)


 さて、今日は同じテメケ区内にある青少年団体(IYF)を訪れました。ここは韓国人の牧師さん一家が中心となって活動している団体です。日曜の今日はミサが行われたのですが、ミサの前にいつも一緒に活動しているKinyago Theater Groupがパフォーマンスを披露する機会を得たので一緒に行ってきました。タイトルの「タンザニアに骨を埋める」は私のことではありません。タンザニアでは友達もたくさん出来たし、楽しい思い出がたくさん出来たのでここを去るのは淋しいですが、帰国も楽しみしている私です。帰ったら温泉に行きたいなぁ、とかおいしいもの一杯食べたいなぁ、、とか考え出すと切が無く、正直言って骨を埋めるほどの覚悟は出来ていません。「タンザニアに骨を埋めるつもり」でいらっしゃるのはこの牧師さんのことです。


 ごく最近までテメケに韓国人一家が韓国人、中国人、タイ人の青少年ボランティアと一緒に生活されていることを知りませんでした。たまたまいつも通っている職業訓練校の先生がこの牧師さんと知り合いで紹介されました。この牧師さん一家はケニアで数年過ごし、そのあとタンザニアに移り、韓国を経ってから15年アフリカで暮らしていらっしゃいます。今日は娘さんとたくさん話をしたのですが、話を聞けば聞くほどすごい一家だと感心と尊敬の念で一杯になりました。

 娘さんはケニアでは電気も水道もない村で地元の小学校に通っていたそうです、唯一の東洋人ということで大変ないじめにも会ったと言っていました。お母さんが2年ほど体調が悪かった間は家事すべてを引き受け、夜はろうそくの明かりで勉強したと言っていました。この一家の覚悟のすごさは、お母さんは病気で体調も悪くて家事も出来なかった状態でも韓国に帰らず、韓国の家族から電話があっても「私は元気にやっていますよ」と常に言っていたそうです。娘さんがマラリアの状態がひどくてもう死ぬかという状態でも村を出なかったそうです。よいか悪いか別として、協力隊なんて目じゃないなぁと思ってしまいました。

 この一家の子どもたちは地元の学校に通っていたので、スワヒリ語はネイティブ並みで本当にすごいのです。お互い最初は英語でしゃべっていたのですが、途中でスワヒリ語になってしまいました。娘さんは最初、この不便なアフリカでの暮らしが大嫌いだったと言っていました。親の都合で連れてこられたという思いもあったそうで、とにかくアフリカを出ることしか考えていなかったそうです。まあ無理もないと思います。ですが、今はここの人たちのために何かしようという気持ちで、イギリスで勉強した後、またタンザニアに戻ってきたそうです。

 さて、帰り道。Kinyagoのリーダーと一緒に話ながら帰りました。彼の夢はタンザニアを出て、いつかはヨーロッパや日本に行って成功すること。「外国で暮らすことは簡単じゃないよ。」と私が言うと、「いや、大丈夫さ」という彼の答え。可能かどうかはわかりませんが、大きな夢をもつこと、外の世界を知ることは大事なことで、彼が色々な人と交流し、異文化に触れ成長する日が来ることを祈る私ですが、なんとなく釈然としない思いもあるわけです。娘さんが言っていた、アフリカさえ出れば自分の人生の問題がすべて解決するわけではない、どこへ行っても同じなんだと気がついた、という言葉が頭に残っています。

Tutaonana

2010年2月18日木曜日

ドドマでのワークショップ:「環境」を考える

Hamjambo?

先週の木曜日からザンジバルとドドマに行ってきました。一度ダルエスにも戻ってきましたが、おおよそ一週間出歩いていました。ザンジバルでは毎年開かれる音楽祭を見てきました。去年は日程が合わず行けなかったのですが、今年はもう最後なので思い切って見に行ってきましたが本当に楽しかったです。タンザニア、ザンジバルなど地元のアーティストだけでなくアフリカ各国、またアメリカ、ヨーロッパ、日本からもアーティストが参加する国際的な音楽祭で、今年で7回目の開催となります。最近ではザンジバルの観光の目玉となりつつあります。
(ザンジバルのOld Fortが会場です。この中の広場で野外コンサートが行われました。)

 音楽祭は一週間近く続くのですが、私たちは土曜日にザンジバルを発ち、日曜にタンザニアの首都ドドマへ移動しました。ダルエスサラームがタンザニアでは一番大きな都市ですが、地理的に中心地ということもあったのかドドマがこの国の首都に指定だれており、国会があると、大統領をはじめ国会議員や役人の多くもダルエスからドドマに大移動します。

 さて、今回のドドマ訪問は協力隊員が主催のTeaching Workshopが開かれたためです。他の国もそうですが、ここタンザニアでも理数科教師という職種の隊員が多く派遣されています。タンザニアではこういった理数科教師隊員が中心となって「タンザニア教育研究会(略してタン教研)」という部会を運営しており、主に中等学校の生徒への奨学金、教授法の交流や中等学校の国家試験対策研究を中心に、タンザニアの生徒の学力向上のため活動しています。この「タン教研」には他の職種で教師として働いている隊員や、私のように教育に関係する隊員なども参加しています。

 今回のテーマは「環境」ということで、様々な職種の隊員やタンザニア人教師も参加しました。ワークショップではテーマに沿った模擬授業を日本人、タンザニア人が行い、見学者と授業者が授業後に授業評価を行うというものです。残念ながら全部の授業を見ることはできませんでしたが、自動車整備隊員が排気ガスの少ないエコカーの話をしたり、数列と自然界の関係を説明した理数科隊員がいたり、とても興味深く参加させてもらいました。
(タンザニア人の同僚と一緒に授業をした理数科隊員)

 私もちょっと「環境」というテーマに沿うには無理もありましたが、ライフスキルの授業のなかから「人生の見通しと目標設定」という授業をさせてもらいました。これは、12月の青少年セミナーで取り上げたトピックで好評だったことから、他の隊員の薦めもあり、このトピックをドドマワークショップ用に選びました。前回のセミナーでは私自身はこのトピックを直接教えなかったので、初挑戦で少々心配でしたが生徒も協力的でとても楽しく授業ができ、大方満足できました。生徒には10年後、6年後、4年後の目標と今年の目標、それに毎日何を頑張るかをワークシートに書いてもらいました。なりたい職業では「医者」「弁護士」「教師」「新聞記者」「エンジニア」「サッカー選手」「秘書」「ドドマの県知事」などなど、結構それぞれの目標を考えて書いてくれました。毎日頑張ることでは「理数系の科目を特にがんばり、毎日2時間勉強する。」とか「自習クラブを作って勉強する」「クラスで一番を取る」というような目標を書いてくれた生徒もいました。授業の中で出来るだけ具体的に、達成可能でかつ達成出来たか出来なかったかわかるような書き方をするように伝えたので、多くの生徒が具体的に目標を書いてくれました。

 他の隊員の授業で特に印象的だったのは、同僚の先生と協力して「フィボナッチ数列」について自然界の花、かたつむり、木などと関係させて説明した理数科教員の授業でした。私は高校の時以来数学には全く触れる機会もなくあまり興味もない人なのですが、この授業はとても興味深く聞かせてもらいました。花びらの数、木の枝の分かれ方、かたつむりの渦巻きはこの数列に沿っているという授業で、この授業を聞いた生徒はきっとこの話を忘れないだろうと思いました。
(グループ活動で、各グループには外で採った花が配られました。実際に花びらの数を数えて数列に合っているか、たしかめます。)

その他、全体で行うアクティビティーでは「モリンガ」という木の種を使った水の浄化実験、ソーラークッカーの設置などを行いました。「モリンガ」という木はミラクルトゥリーだと聞いたことがありましたが、今回初めてその使い方を目の前で見せてもらいびっくりしました。種を粉状にしてそれを汚れた水に入れると、おおよそ30分から1時間でバクテリア等が沈殿してきれいで透明な水になりました。それを沸騰させる、あるいは日光に当てておけば飲料水にもなるそうです。また粉を食事に混ぜると、お腹の中の悪いバクテリアなども死ぬということでした。
(右がモリンガの種の粉を入れて30分経った水。左はもとの汚れた水です。)
(これがモリンガの木の種です。薄皮と殻をとってそれを粉状にして、汚れた水の中に入れると。。。)

これまで理数科教科に限ってしかワークショップが行われていなかったので、自分は初めてこのワークショップに参加しましたが、とても興味深く勉強になりました。また今回自分は参加するだけでしたが、こういった大きなセミナーを開催するにあたって中心となってくれた隊員の人たちに対して感謝の気持ちで一杯です。特に、同期のドドマ隊員は自分の学校でこのセミナーを開催したので本当に大変だったと思いますが、おかげで彼女の学校も見れたし生徒や同僚にも会え、頑張っている様子が伺えました。これで帰国前にダルから遠出をするのも本当に最後かもしれません。
Tutaonana

2010年2月8日月曜日

木を植える人

Hamjambo?
帰国前の土日もあと数えるほどになりました。じっとしているのがもったいなくて、結局今週の週末もちょこちょこと出かけたりして忙しく過ごすことになりました。土曜日は買い物の後に同期隊員の家を訪問し、地元でサッカーの試合を観戦。日曜日の今日は以前に訪問すると約束していたグループのところに行ってきました。

 今日訪れたグループは”Shirikisho key stone”というグループで主に地域で植林をしています。グループと言っても、見た感じ、軍を退職したおじいさんがほぼ一人でやっているようです。私の好きな本で『木を植える人』という話がありますが、これは一人で見返りやお金などとは関係なく荒地に木を植える続ける男のお話で、それを思い出させるような方でした。

(森の前で。向かって左が「木を植える人」。真ん中が私で右隣はこの地域で青少年のための活動をしている友達。二人とも地域のために働くことに熱心で優秀な人たちです。)
 
 テメケの小学校はどこも木が植えてあったりして日差しの強いタンザニアにあって涼しげで緑豊かな学校の環境を作り出しています。また、よく通る広場にも木が植えてあって人々が木陰で休むことの出来る空間を作り出しています。なんとこういった場所のいくつかはこのおじいさんがなさったお仕事の結果でした。

 今日は、荒地で土壌浸食の激しかった土地に植林をし、今は森となっている場所を見学してきました。こちらの木は育つのがとても早いものもあるようで、10年ぐらいで大きな立派な木に成長するようです。元々は政府の住宅が70ほど建っていたのですが、建物が壊れ、土壌の侵食が激しく荒地となったその場所に木を植える仕事をそのおじいさんがすることになったそうです。今では大きな木がたくさんあってまさに森となっていました。ただ残念なことには、住民が捨てるごみがひどくなっていて、住宅の脇は木が枯れかけていました。
(壊れた住宅。こんな壊れた家が70棟もあったそうですが、今ではほとんどその面影はなく、森に生まれ変わっています。)

(森の一番端。住宅地との境目には住民の捨てるゴミが溢れていました。残念)

 事務所への帰り道も「これも私が植えた木だ。」という言葉を何度も聞きながら歩きました。木の種類などもわからないけど尋ねたりしておしゃべりしながら民家の間を歩きました。途中で「たくさん種類がある中でどうしてこの木を選んだのですか?」と私が尋ねると、「これはいい木陰ができるんだ。」という答えが返ってきました。この人らしい答えのように感じました。
このおじいさんは昔軍隊に所属していて、ウガンダと戦争した時にも参戦していたそうです。その後、軍を退職し、木や自然のことが好きだったこともあったのかダルエスサラーム大学でその分野の勉強をしたそうです。今でも自分のお金を使って植林を続けていらっしゃることも多いようですが、今まで数々の場所の植林をされてきたということです。
彼の業績がすばらしいということで、一度副首相が彼のオフィスを訪ねたこともあったそうです。その時に副首相から「何が必要ですか?必要なものを言ってください。」という申し出があったにもかかわらず、このおじいさんは本当に必要な道具をちょっとだけお願いしただけでほとんど何も欲しいと言わなかったそうです。せっかくの機会に彼のお願いがあまりにも慎ましかったので、周りの人がそれを聞いて笑っていたということでした。
(この場所も10年ぐらい前までは何もない荒地だったということです。)

タンザニアに来て、こういった自然環境問題に取り組んでいる人に出会ったことがほとんど無かったので今日の訪問はとても新鮮でした。この方がいなかったらあそこの木もここの森もなかったのかと思うと、本当に貴重なお仕事をされている人だなと思いました。まだタンザニアではこういった自然環境保護に関心のある人が少ないようにも思います。タンザニアは益々経済的にも発展していくでしょうが、ゴミ問題や自然環境破壊などの問題にも取り組んでいかないと将来大変なことになるのではと心配でもあります。
Tutaonana

2010年2月2日火曜日

我心ここに残す-薬物のこと

Hamjambo?
 この週末は日帰りでダルエスサラームからバスで1時間半ほどにある町、バガモヨに行ってきました。先輩隊員の方が週末に孤児院で自分の活動以外でボランティア活動をしておりそれを見に行くのが主な目的でしたが、少ないながらも見所もあるのでそれも楽しんできました。バガモヨという地名は、奴隷となった人が船で連れ出される時に「バガモヨ!(我心ここに残す)」と言ったことでついた名前だと聞いています。そういった奴隷貿易やアラブとの交易の歴史をたどることのできる遺跡があり、また有名な芸術大学があってタンザニアはもとより世界中から学生が集まっていることもあり、現在では小さいながらも独自の文化を築いている町としてたくさんの人が訪れているようです。
(13世紀のアラブ人が建てた思われるモスクとお墓の遺跡)
(芸術大学内にあるステージ。大学ではダンス、音楽、アクロバットや絵画、芝居、舞台監督などなど様々なコースがあります。毎年9月の音楽祭にはタンザニア中からアーティストが集まるそうです。)

 さて、先日は職業訓練校での今年2回目のライフスキルの授業に行ってきました。この職業訓練校ではDon Boscoというキリスト教系の団体の人に以前から授業をしてもらっていますが、先日は私が最近仲良くなった青少年グループの青年をこの人に紹介しました。この日は薬物の授業ということでその青年が持ってきてくれたDVDを見ました。彼は以前、薬物を使用していたのですが今ではすっかり薬物使用を止め、ボランティアで他の人のカウンセリングや啓発活動をしています。
(小さなテレビを借りました。ここの教室は電気がないので隣の建物から長いコードで電気を引きました)
(皆教室の床に座ってテレビを真剣に見ます。生徒は200人近くいたのではないでしょうか)

 任期もあとわずかとなった今頃になって、改めてタンザニアにおける薬物乱用の状況の深刻さを感じています。日本と同じでお酒とタバコは成人ならば合法ですが、大麻、ヘロイン、コカインなど他の薬物はもちろん非合法です。お酒を無許可で作る事ももちろん禁じられています。それにも関わらず、特に大麻の使用にいたっては法律があってもほとんど機能していないのではないかと感じます。ある時、青少年向けの啓発テレビ番組で、大麻の使用者はもちろんのこと、へロインやコカインなどの使用者が堂々とテレビに出て自分の腕に注射を打っているところが放映されているのを見て本当にびっくりしました。

 12月に行った青少年向けセミナーで「薬物」というコマをもうけて自分も話しをしましたが、一般的に若い人たちの間でたばこやアルコールも含め、薬物の健康への影響などはあまり理解されていないようにも感じます。あまり深く考えず小さい時から薬物使用を始めてしまう例もあると聞いています。小学校の高学年、7年生でも大麻を吸っている子が少数ながら存在するという話も先生などから聞いたこともあります。青少年セミナーの参加者の身近にも薬物の売人の友達がいたり、「草」を育てている人がいたり、吸っている人がいたり、以前に吸っていた参加者がいたり。警察官でも吸っている人がいるという話を耳にしたり。日本だったらありえない状況ですが、本人たちはその状況に結構慣れてしまっているような気もしました。
(先日テレビで放送されていました。元薬物使用者も出ていましたが、現在使用中の人もこんな姿も見せていて。。。いいのかしらとこちらが心配になります。)

 
 残りの任期で何ができるか、ということで始めたのが薬物についての詳しいパンフレットを作成しイベント等で人が集まる時や色々な団体や学校を訪れたりする時に配ることです。HIV/AIDSのパンフレットは種類も豊富ですが、薬物関連は限られているため少しでも啓発に役立ててもらいたいと思って作成しました。セミナー用に一応作ったのですが、セミナー後にカウンセリングを行っている団体の人の連絡先なども載せ、改良して大量に印刷しました。
 実は、自分の前任者が青少年グループと協力して以前作った薬物のパンフレットがあり、今回それも参考にさせてもらいました。それをきっかけに、これまであまり訪れていなかった前任ボランティアが活動パートナーとしていた青少年グループにも数回訪れました。このグループはTAYOHAGと言い薬物のカウンセリングを行ったりしているグループで、職業訓練校で今回話をしてくれた青年のグループです。

今回、自分の任期中にTAYOHAGの青年をDon Boscoのライフスキルプログラムのファシリテーターに今回紹介することができ嬉しく思いました。また、TAYOHAGの青年も出来る限りライフスキルの授業を見に来ると言ってくれています。Don Boscoが学校でのライフスキルの教育プログラムを今年の6月に終了することになっておりその後が少々心配となっていましたが、この青年と職業訓練校の先生とも今後協力していってくれそうです。

 さて、この国を去る前にこのパンフレットの電子データもいくつかのグループや団体に残そうと思っています。「我心ここに残す」。。。とは思っていますが、実際何を残せたのか。実際は自分がタンザニアからもらって帰ることのほうが多そうですが。
Tutaonana

2010年1月26日火曜日

太陽の力で電灯が灯った!

Hamjambo?

 タンザニアでは新学年が始まりました。任期も2ヶ月を切りタンザニア生活もあとわずかですが、帰国前になんとか少しは憶えたいと思って去年の後半から太鼓を教えてもらっています。基本のビートをいくつか教えてもらってひたすら叩き続けるのですが、私が太鼓を叩いているとそれにあわせて周りの人たちが太鼓や他の楽器を演奏したり歌を歌ってくれるのでとても気分がよく、ちょっと楽しくてやめられません。

(皆で練習していると近所の子どもたちも集まってきます。周りの人が上手なので、一緒にやっていると自分もうまくなった気分に・・・)



(この子はあんまり笑わないのに、太鼓を触ったり叩いたりするときだけにっこりします。将来は彼も太鼓を叩いてるのかもしれません。)
 

 さて、昨年からの懸案であった村の小学校にソーラーパネルを設置する工事が無事に終了したので、新学期にあわせてソーラーの様子などを視察しに行ってきました。今回はJICAのボランティア調整員の方も一緒に来てくださいました。またなかなか行けない場所なので同じ役所の別部署に配属されている他の隊員も同行しました。たまたまその日役所に来ていたその学校の先生も学校へ戻るのに一緒に車に乗っていきました。役所が遠いので彼は前日から役所近くの親戚の家に泊まっていたそうです。
(電気が全くなかったところに電灯が灯りました。明るい!)

 さて、学校に到着してまずは教員住宅のソーラーシステムの様子を見に行きました。予算の都合もあって3棟ある教員住宅に同じような規模のシステムをつけることはできず、一軒だけにテレビも見ることが出来る大きなシステムをおきました。テレビを見たければ共同購入して一緒に見てもらおうという考えです。各教員住宅のソーラーシステムは異なるので使うことのできる電気器具も異なることは設置前に教員側と話をしていたはずなのに、行ってみるとその辺り忘れていて仕方なくもう一度説明し直しました。

 でも、基本は電灯、携帯電話の充電、ラジオの使用ぐらいはできます。これまで先生たちは携帯電話の充電のために7~8キロ離れた村まで行っていたようです。こういう村でよく起こるのは都会育ちの先生たちが村の生活に耐えられなくて学校を辞めてしまうことです。先生が来なくなってしまうと当然子どもも学校に来なくなってしまいます。実際、タンザニアでは小学校の先生は9割方女性なのに、この村の小学校は生活環境が大変なせいか教員は全員男性です。校長先生のみが地元に家を持って住んでおり、ほかの先生たちはみな教員住宅に住んでいます。

(写真が悪くてすいません。椅子の上に教科書が載っています。その横には携帯電話がたくさん!村の人たちがお願いに来るそうです。)

 校舎にもシステムを置きましたが、将来的にはテレビを村人の寄付や役所からの支援で共同購入し、子どもたちの教育はもちろん、村人の集まる場となることが期待されます。今のところは村人がこぞって携帯電話の充電をお願いにくるようで、バッテリーの近くにたくさん携帯電話が置いてありました。この小学校の子どもたちにHIV・AIDSの知識について調査したことがありますが、基本的な知識が欠けていると感じました。ラジオぐらいは聞けるでしょうが、新聞も買うことができないし、メディアが十分に届いていない僻地ならでは問題かと感じました。

今回のシステムの設置資金は役所と小さなハートプロジェクトを通じて全国電力関連産業労働組合総連合様からの寄付でまかないました。校舎見学が終わったあとには子どもたちに日本からの寄付について、「電力関連の会社の人たちが電気のない村の小学校のことを知って助けてくれた」というような説明しました。これから先生にも生徒にもこのソーラーシステムを末永く大事に使って欲しいと思います。

Tutaonana

(この小学校の生徒たち。校舎の上にソーラーパネルが載っているのがわかりますか?)

2010年1月13日水曜日

キニャゴ・シアター・グループ

Hamjambo?

 今日はザンジバル島の独立記念日で祝日でした。今日は朝から近くのグループが昼間空いているバーを借りてお芝居と踊りの練習をするので、見に行ってきました。6日連続の集中練習ということで、体力向上の目的もあり、私もストレッチや柔軟体操を教えたり、一緒に基礎体力作りのところだけ参加してきました。久しぶりに運動して筋肉痛になりそうな予感です。


(基礎体力作りということで、こんなこともしてました。場所は近くのバーです。)

 さて、先日の日曜日には今日行ったグループとは別グループの年度初めの会議に招待されました。このグループは青少年セミナーで協力したKinyago Theater Groupといいます。何度もブログに書いていますが、このグループのリーダーには特別支援校でのハーモニカ指導でも大変お世話になっています。ダルエスサラーム在住の日本人の方ともハーモニカ支援が縁で仲良くしているので、私を含め3人の日本人がこの会議に招待されました。

 この会議の主な目的のひとつは、Kinyago Theater Groupが本格的に活動を始めたのが去年のことなので、正式にグループとして活動を始めたことを地域の役人や他のグループの若者にも知ってもらうということでした。タンザニアの伝統音楽を仕事として収入を得たいという彼らですが、同時に将来は地域の若者のネットワークの中心となり、若者たちに色々な情報を発信し、HIV・AIDS、薬物、女性差別などの問題に取り組み、若者が問題行動に走らないよう働きかけたいという大きな夢も持っています。そういった活動の目標やグループ結成の目的についてもこの会議で語られました。

 途中、彼らの演奏や姉妹グループのお芝居なども披露され、知らないうちに近所の人もたくさん集まっていました。会場は与党CCMの事務所を借りて行われ、地域の役人やこの地区のCCMの責任者なども最後に意見やアドバイスの言葉を述べていました。私も友人として彼らの活動を陰ながら応援してきたので、意見を求められ、冷や汗をかきながらもなんとか皆さんの前で短いスピーチをスワヒリ語でさせてもらいました。

(会場の後ろには机などが転がってます。ここは政党の事務所で、道端で野菜や魚などを売る人たちが夕方になるとこの机を運び出して商売を始めます。)


    (地域の役人。グループを激励する言葉を述べています。演奏の途中には御ひねりも渡しに行っていました。)

 このグループは都会のダルエスサラームで純粋にタンザニアの伝統楽器のみを使って演奏や踊りをして収入を得たいという人たちの集まりです。若者の雇用が少ないことも関係しているのかもしれませんが、芸術あるいは芸能を主な活動としているグループはテメケにたくさんあります。ですが最近はお芝居をビデオで撮影してそれを売るとか、電気ものの楽器を取り入れるグループが増えてきて、彼らのように純粋に伝統楽器の演奏や踊りで聴かせようというグループはもちろんあるものの、どちらかというと少なくなりつつあるという話も聞きます。

その中でKinyago Theater Groupのメンバーはみんな伝統楽器だけの演奏というこの活動が好きでたまらないというのが伝わってきます。でも、正直これだけで食べていくのはなかなか厳しいだろうなぁとも感じます。タンザニアではHIV・AIDS啓発などのイベントでこういった伝統音楽の演奏が使われることが多く、援助団体や役所から仕事をもらったりするグループも結構あります。Kinyagoのメンバーの何人かは別の仕事もしていますが、別のグループと掛け持ちをして芸能、芸術だけで食べている人もいます。




(みんな演奏や踊りの経験が豊富で、自分たちで歌、演奏、踊りも考えます。女性のダンサーを増やしたいそうです。)

 日本人にとっては、ものすごく有名人というわけでもない一般の「アーティスト」という立場の人が商業公演などもせずに一体どうやって生計をたてているのか理解しがたいことだと思います。私も理解するのに時間がかかりましたが、テレビなどのメディアもまだ100%行き渡っていない場所で様々なメッセージを人々に届けるためにまだこういった人たちの力が必要だということ、日常生活の中に伝統楽器の演奏がまだ必要な部分があるということ、あとは「暮らす」ということに対する日本人が持つイメージとの違いもあって、決して楽ではないでしょうが彼らはなんとかこういった活動で「生活」をしています。

大変だなぁと思う半面、好きなことをして暮らしている彼らが幸せそうにも思えます。リーダーの大好きな言葉は「Never Give Up」。あきらめず、大きな夢に向かって頑張って欲しいと思います。

Tutaonana

2010年1月6日水曜日

タンザニア v.s. コートジボアール

Heri ya Mwaka Mpya!! あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。

昨日、今日はあちこちで新年の挨拶が交わされる毎日です。「あけましておめでとう。無事に年を越したのね。」なんていうちょっと日本的な挨拶を思い起こさせる表現もあり、相変わらず暑い毎日ですが、今年は土日も合わさって日本のように元旦から三日間休みだったこともあり、年がかわってまた心機一転というような初々しい気分になっています。さらに年末は隊員やJICA関係者でお餅つきをしたり、年越しそばをご馳走になったり日本のお正月も少し味わえました。年が明けてからはタンザニア人の友人の親戚宅にお呼ばれして家庭の雰囲気を味わったり、普段は忙しくてあまり相手をしてあげていない大家さん宅の子どもたちと遊んだりのんびり過ごしました。

 さて、仕事はじめの昨日、仕事が終わってから配属先の目の前にある国立競技場へサッカーの試合を見に行ってきました。タンザニア対コートジボアールのナショナルチーム同士の国際試合です。私はスポーツを見るのは好きですが、どんなチームに誰がいるとか、どこが強いとか選手の名前も詳しくはありません。でも配属先の目の前で頻繁にサッカーの試合が行われているので、帰国前にいつかは一度試合を見に行きたいと思っていました。年末にそのことを配属先の人に言うと、彼はよくサッカーの試合を見に行っているようで、年明けに国際試合があるから行こうと誘ってもらいました。

(国立競技場に続く道路わきに立ったフレンドリーマッチを知らせる看板)


 試合のあった当日の朝、その同僚がチケットを買ってきてくれました。値段は日本円でおおよそ1000円弱で、いくつかあるランクの真ん中ぐらいの値段です。この試合がどれだけ注目されているのかわかってなかったのは自分だけで、朝からどこへ行ってもその日のサッカーの試合の話をみながしていました。サッカーファンの方には本当に失礼な話ですが、コートジボアールってすごく強いチームだったみたいですね。レギュラーほぼ全員がヨーロッパのリーグで活躍しているらしく、また一番人気のディディエ・ドログバはイギリスのチェルシーで活躍していて、彼を肉眼で見たいがためにたくさんの人がスタジアムに集まったと翌日の新聞でも報道していました。

(ゲートをくぐって急ぎ足でスタジアム内に向かう人たち)

 それにしても、国立競技場の前をほぼ毎日歩いて配属先に通っていますが、新しい大スタジアムに入ったのはこれが初めてでした。小さ目の旧スタジアムには何度か入ったことがあったのですが、全く比べ物にならないくらい新しくてきれいで大きくてびっくりしました。これを作ったのは、以前にも書いたかもしれませんが中国で、なかなかやるなぁと思いました。大スタジアムの観客の収容人数を考えると元が取れるような人気の試合でしかここは使えないようで、普段の「並」の試合は旧スタジアムで行われるそうです。ですが、この日は大スタジアムがほぼ満席という状態でした。ついでに大統領も見に来ていて、いかに注目された試合だったかわかっていただけると思います。

(試合開始直前。両チームが向かい合っています。青がタンザニアの「タイファ・スターズ(国家の星?)」でオレンジのユニフォームがコートジボアールの「ザ・エレファンツ」です。)


 試合は体の小さいタンザニアチームが頑張って走っていましたが、前半、注目のドログバが1点を決め、結局その1点が決勝点となりました。本当に、遠めに見てもコートジボアールの先週は手足が長くて背も高いのに、タンザニアの選手は小さい選手が多いのがわかりました。タンザニアは出場できないらしいですが、コートジボアールはアンゴラであるアフリカカップの前の練習試合みたいな感じだったようで、前半はフルレギュラーメンバーでしたが、後半はゴールキーパーも含めて選手全員総入れ替えしてレギュラーメンバーは休憩。。。それでも観客はすごく楽しんでいたように思います。みんなタンザニアの応援に必死で、ゴールが決まらなかった時の反応やタンザニア人のプレーヤーがいいプレイをした時のみんなの反応を見ているのもおもしろかったです。どっちを応援しても良かった私ですが、やっぱりタンザニアを応援してしまいました。

(何かと腕を振り上げてプレーヤーのプレーに反応してる観客の人たち。最上階まで人で一杯です。)

 帰りは試合終了5分ぐらい前には出て、別の同僚の車で家まで送ってもらいましたが、道路にはすでに人があふれ、車も渋滞という状態でちょっと大変でした。翌日の新聞には午後7時から始まる試合のために午後の2時ぐらいから家でテレビを見ようと自宅に向かう人や国立競技場へ向かう人で道路が渋滞したそうで、逆に7時前には渋滞が収まっていたと書いてありました。

(スポンサーはビール会社のセレンゲティ。マスコットの豹さんたち。自分たちのスポンサーの看板が倒れたので自分たちで立て直しています。) 

さて翌日の今日。私は配属先の人ほとんどみんなに「昨日サッカー見にいったんだって?」と挨拶するたびに言われました。そのうわさの広まる速さと範囲の広さに驚かされましたが、どこかみんな私がサッカーを見に行ったことを嬉しいことのように話すのを聞いて、全く嫌な感じがしないし、自分もタンザニア人と一緒の話題で話したり、一緒の時間を喜んだりできたことがなんだかとても嬉しくかつ愉快な感じがしました。まあでも帰りの大変さを考えると、直接見に行くのはこれが最後かもしれません。


Tutaonana