2009年2月18日水曜日

卒業生4000人の行方とセカンダリーの事情

Hamjambo?

 ここ数日、中国の胡錦濤国家主席のタンザニア訪問がありニュースでも大々的に取り上げられていました。この週末は近所の国立競技場(中国の建設)で歓迎式典が行われました。そして、主席は昨日モーリシャスへ出発したのですが、空港でのお見送りになんと配属先の事務員の女性たちが借り出されたのでした。

朝、出勤すると中国とタンザニアの国旗のついたおそろいの帽子、ポロシャツ、さらに、オバマに続きまたしても胡錦涛主席の顔写真のプリントされたカンガをまとった女性が何人かいるではありませんか!びっくりです。彼女たちはそろってバスで空港へ向かいました。麻生さんもタンザニアに来たらカンガに顔写真がプリントされるのではないかと思うのですが、タンザニア訪問、ないですかね。

(この格好の女性がたくさん役所に。。。あとおそろいの帽子もあります。後ろから写真を撮って失礼ですが、一応了解とりました。)

 さて、そんなこんなで落ち着かない感じで一日が始まりました。このところ、一応自分なりに一週間ごとに予定を立てています。この日予定では比較的時間があるのでこれまで行けなかった団体や学校を訪問するか、次の日から始まるセミナーの準備の手伝いをするか。。。。のはずでした。しかし、行ってみると、突然セカンダリー(中等学校)10校の視察にいくことに。

 なんでも、金曜に突然カウンターパートも呼び出しがかかり、教育省から国家試験に合格し中等学校への進学が決まっているにも関わらず学校に空きがなくて待機している4000人の小学校の卒業生をなんとかしないといけないと御達しがあったそうです。1月には学校が始まっているのですから、今まで放っておくほうがどうかと思いますが、まあ突然の仕事です。なんとか生徒を送れそうな学校を探し出すべく、1日に10校まわって状況を確かめることになりました。

 どこの学校も進学する生徒の急増に対処するためここ数年でできた新しい学校です。テメケ区内では昨年一度に20数校、校舎を建設したはずですが、行ってみるとまだ工事中の校舎がいくつもあります。教室が足りないので、学校によっては午前中に1年生と3年生、午後から2年生の授業と言う風に、2部制にしているところもありました。先生の数も、生徒800人ぐらいに対して10数人です。数学と物理の先生が居ない、とか、語学の先生が2人足りないとか。。。。いったいどうしたものか。本当に大変なことです。ある学校では、私が日本のボランティアだと言うと、先生をなんとか送ってくれと真剣に言われました。
 
(遠くに見える校舎は去年建設が始まりましたが、まだ完成していません。グラウンドもこれから整備するそうです。)
 それにしても、これまでも常々感じていたことですが、一度にいくつもの学校を訪ねると、なんとなく各学校の違いが見えてきます。学校の校舎の管理や施設の違い、校長室や職員室の整頓の様子などなど。簡単な学校の状況、例えば先生や生徒の数、施設や備品の数を尋ねたのですが、その受け答えを聞いていても、きちんと情報を把握している学校とそうでない学校との差が見えてきます。

 校長先生のリーダーシップと将来へのビジョンがはっきりしているかどうかで、同じ役所のお金で建てたのに、校舎まで違って見えてきます。ある学校では、役所側が「なにが足りなくて、どんな課題がありますか?」という問いにたいして、即座に色々な答えが返ってくると同時に、他の学校で聞かなかったような、「生徒のための救急用品」「食堂」という返答をされた校長先生がいました。この学校だけが各校舎にトイレを設置しており、あとの学校は外にしかトイレがありませんでした。この違いも校長先生の考えの違いや実行力によるものだとのことでした。
実現しないと決め付けないで、いろいろな希望を描き、生徒たちのために役所や様々な外部団体の援助を探しているその学校の校長先生には大変感銘をうけました。思わず、「学校環境は校長先生の努力に左右されるということが、この学校に来てわかりました。」と伝えました。(というか伝えたつもりです。スワヒリ語なんで。)校長先生はとてもよろこんでいました。ここの学校では役所の人たちと校長先生の話も弾み、今回の訪問で良好な関係がさらに深まったように感じました。
(私を含め、役所からは5名が視察に行きました。最後の学校を訪問したのは4時半ごろで、午後の部の授業を終えた生徒たちとすれ違いました。)

 さて、肝心の4000人の生徒のことですが、こんな状況で各学校ともさらに生徒を受け入れることはできるのか怪しいものです。無理でも結局、生徒を送らざるを得ないでしょうが、結局、学校が面白くなくてサボってしまう生徒は学校に来なくなる生徒も少なくないようなことも聞きました。タンザニア政府もなぜもう少し計画的に物事を進められなかったのかなぁとも思います。でもお金の問題もあるので仕方ないかもしれません。。。問題山積みですね。でも上からの命令は絶対従わざるを得ないタンザニアですからなんとかする?でしょう。

Tutaonana

2009年2月14日土曜日

タンザニアで故郷の人に会う

Hamjambo?

 先週はタンザニアではありえないぐらい一日にいくつかの予定をこなすという離れ業をした日が何日かありました。ここでは人が約束の時間に来なかったり、突然の頼まれごとが入ったり、雨が降って交通が不便になったり。。。色々なことで予定通りに進まないことが多いのですが、木曜日などは、分刻みの移動で3ヶ所で用事を済ませることができ、それだけでとても満足してしまいました。

 さて、昨日は在タンザニアの日本大使公邸で少し遅めの新年会が開かれ、主に仕事などでタンザニアに在住の日本人が招かれました。私たち隊員の中ではダルエスサラーム在住のものがお招きに預かることができました。

この新年会に今回はスペシャルゲストとして、マラソンランナーの瀬古氏と早稲田の学生さん、そしてなんとイカンガー氏も招かれていました。瀬古さんとイカンガーさんはUNHCR(国連難民弁務官事務所)の招きもあってブルンジ、ザンビアなどと接するタンガニーカ湖沿いのキゴマという町に行かれたそうです。キゴマは難民キャンプがいくつかあるようで、UNHCR、国際赤十字、国境無き医師団などの事務所がならび難民支援の前線地となっているそうです。私たち隊員は安全面から渡航禁止地区となっていますが、話によるとそんなことを感じさせない落ち着いた町だということも聞きました。瀬古さんと早稲田の学生さんたちは難民の人たちを勇気付けるため、彼らと一緒に日本の伝統である駅伝をしてきたのだそうです。早稲田の学生さんの中には今年の箱根駅伝で5区とアンカーだったと言うお二人も一緒でした。(日本のニュースにちょっと遅れ気味で名前を存じ上げなかったのですが、この二人ってすごい人なんですよねぇ。)
(瀬古さんと一緒に。左端は隊員仲間でエイズ対策員として活動しています。今度一緒にキリマンジャロマラソンに行きます。彼女はフルマラソン挑戦だそうですが、私はハーフを歩きながら完走が目標です。)

イカンガーさんは瀬古選手のライバルとして活躍した方です。その縁で新年会にも招かれていました。初めてお会いしましたが、とても小柄な方でびっくりしました。いつも努力を続けていた瀬古選手のことを尊敬していたしよい友人だと話されました。スワヒリ語で少しお話させていただきましたが、タンザニア人の中でも特に穏やかな印象を与えるとてもすてきな方でも大変感動しました。
         (イカンガーさんは本当に穏やかですが、同時にとってもダジャレ好きでした。。)

瀬古さんは三重県桑名市の出身です。三重県で会うことはなかったのにタンザニアで会うことができるとは不思議なものです。実は現在ダルエスサラームの隊員10名のうち、私を含めて3名が三重県出身です。大使館にも四日市の出身の方がいらっしゃり、また民間の仕事で来ている方でも四日市出身の方がいらっしゃいます。三重県人会と称してみんなで集まり世界の瀬古さんとそのあとローカル話で盛り上がりました。

何事も極めた人というのはすごいなと思うと同時に、スポーツでつながる友情や交流というのはすがすがしくてとてもいいものだと改めて思いました。

私のカウンターパートは今、女の子たちだけのスポーツ大会を企画しています。100m、200mやリレーなどの徒競走やサッカー、ネットボール、ハンドボールなどを企画しています。それも楽しみになってきました。

Tutaonana

2009年2月5日木曜日

テメケ区の果てを訪ねて

Hamjambo?

 この週末に世界遺産とビーチリゾートの島、ザンジバルに一泊二日で行ってきました。ダルエスサラームから船で2時間半、飛行機だと20分という近さなので、休暇を消費するのが嫌な私は土曜の早朝に出発し、日曜の夜に帰着という強行スケジュールでの旅行でしたが、同期隊員とも久しぶりにゆっくり話しができたし大陸側とは違うイスラム文化に少し触れることができ楽しい週末でした。


(世界遺産に指定されているストーンタウン。近いのでまたゆっくり行こうと思います。知っている方もいるかもしれませんが、クウィーンのフレディマーキュリーの生まれた街です。)

 そんなハードな週末を過ごした後の月曜日。今度は私の配属先であるテメケ区の南の果ての小学校へ行ってきました。

 ダルエスサラームは言わずと知れたタンザニアで一番大きな都市ですが、私がこの日訪れた小学校ももちろんダルエスサラーム市内に位置するのですが、まあ本当にここもダルエスサラーム市内かと思うような所でした。

 区役所から公用車でどんどん南に下っていくと、だんだん家が少なくなり、周りが森のような景色が広がってきます。周りに家が全く見えない場所も続きます。途中で最近出来たらしいダルエスサラーム動物園を通り過ぎます。(動物園がこの国で必要なのか疑問ですが、一応ライオンも居るらしいです。あとは各地の地鶏が見れるとか。。。)しばらくするとだだっ広い平地が広がり、途中でメインの道路から内部に少しはいるとそこにぽつんと小学校がありました。

 ここの小学校の近くには公共交通機関がなく、8キロメートル先の村まで行かないとバスに乗れません。歩くか自転車があれば自転車か、トラックの荷台に乗って運んでもらうかしかありません。乾季はまだよいとして、雨季は道も水に浸かってしまって移動はとても困難になることが容易に想像されます。
     (行く前に少し雨が降ったので、学校の近くの道も水でぬかるんで少々通行が困難でした。)

小学校ではおおよそ200人の生徒が学んでおり、6人の男性の先生たちがここで働いていました。校長先生以外は外部から電気も水もないこの村に住んで教鞭をとっており、学校を出たばかりと思われるとても若い先生が多い印象を受けました。以前この学校は成人識字教室で小学校ではありませんでした。となりの小学校はいずれも8キロか9キロメートル離れたところにしかありませんので、子どもたちはそこに通うしかなく、結局のところ就学年齢になっても学校に通えない人が多く、成人識字教室がこの地で始まったそうです。その後2003年に、地域の強い希望でこの成人識字教室が小学校として新たに開校することになったということです。

     (学校へ行く途中の景色。本当に何にもないんです。。。ここもダルエスサラーム市)

しかし、先生たちの生活も困難なので、校長先生を初め、成人識字教室の頃から頑張っている先生もいるそうですが、特に都会育ちの多くの先生がこの生活に耐えられずにこの地を去っていくそうです。これは地方の学校でもよく聞く話ですが、ダルエスサラーム市にもまだこのような地域が残っていることに驚きました。

                  (子どもたちと一緒に校舎の前でポーズ)

私も子どもたちに自己紹介をしましたが、いつもと様子が少々違います。

私:        「私はノリコと言います。どこから来たでしょう?」
子どもたち:   「町!」 (えっ??チナとか言わないのか。。。)
私:        「えーと。そうじゃなくてどこの国から来たかな?」
子どもたち:   「タンザニア!」(そんなに日焼けしたかなぁ。。私。。いやいや。。。)
私:        「もうタンザニア人みたいになったかなぁ。でも日本から来たのよ。」


。。。とこんな感じでした。多くの生徒は町には一応行ったことはあるようですが、東洋人はあまりみたことなかったのでしょう。彼らにとっては町が自分たちの知る限りの一番遠いところなのかもしれません。

さて、私が役所の人にここに連れられて来た目的は、「ここの学校どうにかしてくれ。」ってことなんですが、これについては思案中。。。大きな宿題です。

Tutaonana.