2010年3月24日水曜日

三重県に無事到着

Hamjambo?


今日、研修が終わって実家のある四日市に戻ってきました。


新幹線って速いですねぇ。7時半ごろには家に到着しました。


家に戻ると、私がタンザニアから送ったティンガ・ティンガの表札が迎えてくれました。


このブログ、これで本当に終了しようと思います。


日本から応援してくださった皆様、お世話になったタンザニア在住の皆様、本当にありがとうございました。


筆不精で日記などはこれまで全く長続きしたことのない自分ですが、特に日本の人達にタンザニアのことを少しでも伝えようという思いと、家族に無事を伝えたいという思いでなんとか続けることができました。


コメントはなくても「花花通信、ちょくちょく見てるよ~。」ってメールもらったり、タンザニア在住の日本人の人にも声を掛けてもらったり、とても嬉しかったし、続ける活力となりました。


私が派遣されていた期間にこの「花花通信」を読んで、少しでもタンザニア、しかもダルエス市、テメケ区のディープな部分を感じていただけたのでしたら幸いです。


これからは日本を舞台に頑張っていきたいと思います。


また会う日まで。


Tutaonana 

2010年3月23日火曜日

協力隊活動終了

Hamjambo?


3月22日の夜に羽田に無事到着しました。


途中、トランジットでドバイに立ち寄り、夜中にもかかわらず光り輝いている空港の建物に驚き、店の中の品物の多さや人の多さに圧倒され、日本へのリハビリを経て日本にたどり着きました。


ドバイからの飛行機では久しぶりに日本人ばかりが周囲にいる環境に緊張しながら過ごしました。


大阪に到着直前、飛行機から見た大阪の町は家が密集し、大都会と思っていたダルエスサラームをはるかに凌ぐ建物の多さになんとなく自分の心拍数が上がるような緊張感を覚えました。

羽田に到着し、日本はとっても寒くて、汗が止まらなかったタンザニアの暑さがなんだか信じられません。汗が全くでない。。。


東京では街を歩くと店のショーウィンドーがピカピカで、元々田舎者なのにキョロキョロせずに居られません。まだまだ今のところは何を見ても感動と驚きと新鮮さで一杯です。


店員さんの愛想のよさや対応の早さにもいちいち感動です。一日目の夜は居酒屋さんで最初に食べたのはめかぶ豆腐。。。タンザニアでもご飯はおいしく頂いてきましたが、やっぱり日本食、何を食べてもおいしいですね。


そんなこんなで、今日は東京で研修があり、外務大臣はいらっしゃいませんでしたが、感謝状を頂きました。本当にこれで隊員活動が終了です。

(感謝状を20年度の現職参加教員が受け取りました。)


(頂いた感謝状。岡田さんが外務大臣ってあまりわかってませんでした。)


自分の国に対して新鮮な気持ちで向き合える今の自分を忘れないように、これからは日本を舞台にまた一から出直して頑張らないとだめですね。



もうちょっとで三重県に帰ります。



Tutaonana

2010年3月21日日曜日

帰国します!!

Hamjambo?
いよいよ帰国します。今は日付も変わって3月21日の午前0時30分。ということで、今日のお昼の便で出発します。
たくさんの経験と思い出が出来た1年と9ヶ月。タンザニア人、タンザニアにいる日本人の方々はもとより、日本で応援してくださった皆さんのおかげで無事に過ごすことができました。本当にありがとうございました。
もう少しで日本です。日本に帰ってきたらまた今まで通りお付き合いくださいね。
家に着くまでが遠足なので、最後まで気をぬかないで無事帰りつきたいと思います。
東京で研修があるけど、皆さん、待っててくださいね!
Tutaonana!

昨日は、恒例のクワヘリパーティがありました。任期中の活動をまとめたムーヴィーが披露されました。

2010年3月15日月曜日

Kinyagoの初舞台とお別れ会

Hamjambo?

 帰国まであと1週間ほどに迫ってきました。先週の金曜日は区役所の仕事納めとなりました。あとは部屋の片付けと各方面へのお別れの挨拶、JICAでの報告、首相府での報告や大使館への表敬が残っています。先週からすでに各方面にお別れの挨拶に行く機会も何度がありました。挨拶を大事にするタンザニアですから、何も言わずに去ったりすれば大変です。校長会でお別れの挨拶をし、「ちゃんがもと」で机を送ったBuza小学校の先生方にお別れ会を開いて頂いたり、区役所の区長さんにも挨拶に行きました。

 昨日の土曜日の夜は、これまで一緒に特別支援校で協力してきたダルエスサラーム在住の日本人の方がお別れ会を開いてくださいました。3月はお別れの季節ということで、他にもタンザニアを去る方々まとめてのお別れ会でした。特別支援校での音楽の授業はKinyago Theater Groupのリーダーも一緒に協力して続けてきたので、このお別れ会に彼らが太鼓の演奏と歌や踊りのパフフォーマンスをしてくれました。
 Kinyago Theater Groupだけの初のオンステージ。歌や踊りはもちろん、火を使ったパフォーマンスまで見せてくれ、タンザニアを去る人たちのために、お別れの歌も新しく作ってくれていました。

(火を使ったパフォーマンス。体に直接火の点いた棒をつけたり、口の中に火の点いた綿の塊などを口にいれたり、こんなのも出来るなんて実は知らなくてびっくりしました。)
(女性のダンサーもこの日は助っ人で参加してくれてさらにパワーアップ)
Kila chenye mwanza, akitakosa mwisho
Tunasema kwa herini,
Tutaonana tena
Mungu akipende tutaonana tena...

始まりがあるものはすべて終わりがある。
僕たちは言う。さようなら
また遭いましょう。
神さまがお望みになれば、またお互い会うことでしょう。


 私がタンザニアに来ない限り、彼らと二度と会うことはないかもしれません。日本に行ってみたい、日本へ行きたいという彼らには、「日本までの往復チケットさえ買えば、あとは私があなたたちをもてなすわよ」と言い続けてきました。日々の生活にも苦労している彼らにとって、それがほとんど不可能なことはわかっているけれど、そういい続けてきました。
「そんなの無理さ。」と言った時も、「大会で優勝して大金をもらうかもしれないわよ。」なんて言い続けてきました。「そうだね。あきらめないさ。」と答えてくれたリーダー。最近の彼の口癖は「僕はタンザニア人ボランティアです。」という自己紹介。子どもたちや近所の若者に太鼓やお芝居の指導をボランティアで続けてきてくれました。これまで何人かの日本人ボランティアにも出会ってきた彼は、日本人ボランティアが2年ごとに必ず帰国することを理解しています。そして彼らにもう一度会うことがとても難しいこともわかっています。新しく今回作ってくれたお別れの曲はとても明るいメロディーだし、みんな楽しそうに踊っていたりしたけれど、リハーサルの時に歌詞を聴いて泣きそうになりました。

 でも当日のKinyago Theater Groupのパフォーマンスはみんなで踊りを踊ったり、お別れのことさえ忘れてしまうようなとても楽しい時間を過ごしました。そして最後に一人の方がこのお別れの曲をアンコールしました。もう一度、Kinyago Theater Groupがこの明るく元気なお別れの曲を演奏したのですが、演奏し終わった途端にリーダーが感極まって泣き出してしまいました。自分もなんとか泣かずに我慢してきたのに、恥ずかしながらもらい泣きしてしまいました。日本での友人とのお別れと違って、「一体いつまた会えるのだろう。」という思いが頭を巡ります。
(日本人もみんなで一緒にステップを覚えて、ンゴマにあわせてダンスをしました)

 出来たばかりの新しいグループの応援をしてきたわけですが、これからは彼ら自身が自立していくしかありません。昨日がグループとしての初仕事だった彼らは、まだグループとして仕事らしい仕事はもらっていません。ここからが始まりなので、いつかタンザニアに私が戻って来た時、今よりも一回りも二周りも大きく成長していて欲しいと願うばかりです。
Tutaonana



(最後に皆で一緒に写真を撮りました。)

2010年3月7日日曜日

Fatakiのはなし

Hamjambo?
 先週は色々な学校や校長会などでお別れの挨拶をしてきました。おおよそ1年間通った特別支援小学校でもみんなとお別れをしてきました。昨日は「特別な支援の必要な子どもたちのための文化祭」というような催しがVillage Museumで開かれ、私が教えていた学校の子どもたちも参加したのでそれを見に行ってきました。
(Salvation Army特別支援小学校の子どもたちも元気に踊りと太鼓を披露しました。)

 
 この催しはVillage Museumというタンザニア各地の部族の文化を紹介する国立博物館で行われました。参加した子どもたちの多くは、肢体不自由、視覚や聴覚不自由の子どもたちや孤児などで、いずれもダルエスサラーム市内の学校や施設で学んだり生活しています。
この催しは子どもたちへの特別支援の意味もありますが、ダルエスサラームという都会育ちの子どもたちがタンザニアの伝統文化について学習する場でもあり、昔ながらのお茶を作って飲んだり、博物館所属のンゴマのグループによる太鼓やダンスの披露、タンザニアの東海岸沿いの人たちの衣装のファッションショーなどのプログラムもありました。それと同時に、参加した学校の子どもたちに活躍の場を与えるという意味もあり、子ども達もンゴマ(太鼓と踊り)、啓発劇、歌や詩の朗読を披露したり、手芸品や美術作品の展示などもあり、とても有意義な会でした。
(博物館所属の女性だけによる太鼓と踊りのチーム。平均年齢も高そうで、おばあちゃんも太鼓を叩いていました。とっても元気で、南部の踊りを披露しました。)

 
 さて、私が通っていた学校の子どもたちも含め、この文化祭で数校が啓発劇を披露しました。この啓発劇、特に内容について打ち合わせをしたわけでもなかったのに、すべての学校が「Fataki」という同じテーマでお芝居を作ってきました。「Fataki」は「花火」という意味もあるのですが、最近よく聞かれる言葉で、しいて言えば「お金を持っているロリコンおじさん」みたいな人のこと指すのに使われるようになってきました。元々は「ロリコンおじさん」と小学生の女の子を題材にした啓発コミックで、その「ロリコンおじさん」の名前がFataki氏だったことによると聞いています。
(Fatakiはこんな人!?)

 小学生の妊娠問題がまだまだ無くならないタンザニアでは、「Fatakiにだまされないようにしましょう」的なキャンペーンが展開されたこともあり、今回このテーマを選んだ学校が多くなったようです。各学校とも同じ「Fataki」がテーマでも少しずつ内容が違い、色々なタイプのFatakiが居ることが分かります。私の通っていた学校の子どもたちが披露したFatakiは、小学生の子どもを持つ父親が自分の子どもの友達に手を出して妊娠させるタイプでした。別の学校は、通学途中で出会ったお兄さんぐらいのFatakiのことを取り上げました。このFatakiは通学途中に毎日車に乗せてくれたり、ご飯をご馳走してくれたりし、最後に子どもは妊娠してしまうという話でした。

 
タンザニアではレイプの刑は禁錮30年、18歳以下の子どもに結婚を強要した親なども刑罰の対象になると聞いています。未成年の子どもを妊娠させた場合もなんらかの刑があると思います。啓発劇の中でもこのFatakiたちは警察に捕まるという結末でした。以前にも書いたかもしれませんが、小学校や中学校の男性教員が生徒を妊娠させるという話もちょくちょく聞きます。そういう場合も子どもの教育の機会を奪ったということで刑罰の対象になるはずなのですが、「結婚する」という形でそれを逃れている場合が多いと聞いています。
      (Fataki追放キャンペーンのポスター。アメリカの支援とタンザニアのエイズコントロール局も協力しています。)

 どうしてこんなにFatakiがはびこるのか。「Fatakiの言うことを聞いたり、ついて行ってはダメよ。」というのは、日本で小さい子どもによく言う、「知らない人について行っちゃダメよ。」というのともちょっと違うような気もします。Fatakiは大体にしてお金を持っていて、「車に乗せて家まで送ってあげよう。」とか「チプシ(フライドポテト)をご馳走してあげよう。」「ソーダをご馳走してあげよう。」と言ったり、課外授業の授業料や交通費などのお金を出すとか、携帯電話や洋服など様々なものを買ってあげるとか言うイメージです。一方で、劇の中でも、貧しくて食べていけないという状況の子どもが描かれているわけではなく、「物が欲しい」という欲望に負けてしまったりする様子がよく描かれています。田舎の状況はまた違うのかもしれませんが、ダルエスサラームだと、日本で言う「援助交際」的な感じにちょっと近いかもしれません。

 急に便利なものが生活の中に入ってきたタンザニア。特にダルエスサラームでは人々の「物欲」が高まっているようにも思います。最近の女子大生は3人の彼氏がいるという話もどこかの新聞の記事で読みました。一人は「ATM」でお金を持っている学校の外にいる年上の彼氏。もう一人は「Voda fasta」(ある携帯電話会社のサービスの良さを売りにするキャッチフレーズ)と言って、彼もなんでも言うことを聞いてくれるタイプのようです。もう一人は「Bajaji」(町を走るバイクタクシーの呼び名)と言われる同じ大学内の学生で、お金はないけど、テスト前にノートをコピーしてくれたりなんでも言うことを聞いてくれる言わば「パシリ」の彼氏だそう。。。これがすべて本当とは思いませんが、多少はこういう人たちがいるのでしょうね。

 さて、今回の文化祭で啓発劇を演じた子どもたちやそれを見た子どもたちはFatakiの被害に遭わないことを願いたいと思います。それとともに、男の子はFatakiに将来ならないで欲しいものです。タンザニアも子どもを育てるのにこれまでとは違った意味で大変な時代になってきたように思います。
Tutaonana

2010年3月1日月曜日

タンザニアに骨を埋める覚悟

Hamjambo?

 活動期間が残り少なくなってはいますが、今だにしつこく週末もユースグループを訪ねたりして過ごしています。昨日はみんながよくやっているボードゲーム(ドラフトと言うそうです。)を教えてもらいました。自分は良く知らないけど、西洋碁?のことなのかな。結構頭を使うゲームです。やっているのはほとんど男性ですが、子どもから大人まで街角で真剣勝負している姿をよく見かけます。私も昨日は初挑戦。みんなに助けられながら何人かと対戦しました。


(ボードは立派なつくりですが、駒はペットボトルの色違いの蓋を再利用。こんな風景にどこでもお目にかかります。)


 さて、今日は同じテメケ区内にある青少年団体(IYF)を訪れました。ここは韓国人の牧師さん一家が中心となって活動している団体です。日曜の今日はミサが行われたのですが、ミサの前にいつも一緒に活動しているKinyago Theater Groupがパフォーマンスを披露する機会を得たので一緒に行ってきました。タイトルの「タンザニアに骨を埋める」は私のことではありません。タンザニアでは友達もたくさん出来たし、楽しい思い出がたくさん出来たのでここを去るのは淋しいですが、帰国も楽しみしている私です。帰ったら温泉に行きたいなぁ、とかおいしいもの一杯食べたいなぁ、、とか考え出すと切が無く、正直言って骨を埋めるほどの覚悟は出来ていません。「タンザニアに骨を埋めるつもり」でいらっしゃるのはこの牧師さんのことです。


 ごく最近までテメケに韓国人一家が韓国人、中国人、タイ人の青少年ボランティアと一緒に生活されていることを知りませんでした。たまたまいつも通っている職業訓練校の先生がこの牧師さんと知り合いで紹介されました。この牧師さん一家はケニアで数年過ごし、そのあとタンザニアに移り、韓国を経ってから15年アフリカで暮らしていらっしゃいます。今日は娘さんとたくさん話をしたのですが、話を聞けば聞くほどすごい一家だと感心と尊敬の念で一杯になりました。

 娘さんはケニアでは電気も水道もない村で地元の小学校に通っていたそうです、唯一の東洋人ということで大変ないじめにも会ったと言っていました。お母さんが2年ほど体調が悪かった間は家事すべてを引き受け、夜はろうそくの明かりで勉強したと言っていました。この一家の覚悟のすごさは、お母さんは病気で体調も悪くて家事も出来なかった状態でも韓国に帰らず、韓国の家族から電話があっても「私は元気にやっていますよ」と常に言っていたそうです。娘さんがマラリアの状態がひどくてもう死ぬかという状態でも村を出なかったそうです。よいか悪いか別として、協力隊なんて目じゃないなぁと思ってしまいました。

 この一家の子どもたちは地元の学校に通っていたので、スワヒリ語はネイティブ並みで本当にすごいのです。お互い最初は英語でしゃべっていたのですが、途中でスワヒリ語になってしまいました。娘さんは最初、この不便なアフリカでの暮らしが大嫌いだったと言っていました。親の都合で連れてこられたという思いもあったそうで、とにかくアフリカを出ることしか考えていなかったそうです。まあ無理もないと思います。ですが、今はここの人たちのために何かしようという気持ちで、イギリスで勉強した後、またタンザニアに戻ってきたそうです。

 さて、帰り道。Kinyagoのリーダーと一緒に話ながら帰りました。彼の夢はタンザニアを出て、いつかはヨーロッパや日本に行って成功すること。「外国で暮らすことは簡単じゃないよ。」と私が言うと、「いや、大丈夫さ」という彼の答え。可能かどうかはわかりませんが、大きな夢をもつこと、外の世界を知ることは大事なことで、彼が色々な人と交流し、異文化に触れ成長する日が来ることを祈る私ですが、なんとなく釈然としない思いもあるわけです。娘さんが言っていた、アフリカさえ出れば自分の人生の問題がすべて解決するわけではない、どこへ行っても同じなんだと気がついた、という言葉が頭に残っています。

Tutaonana